日本文学第7回 森鴎外 - 文づかい

今回は、前回に続いて、森鴎外の作品です。

舞姫」「うたかたの記」とともに、「ドイツ三部作」の一つと言われている「文づかい」です。

正しい順番は、「舞姫」→「うたかたの記」→「文づかい」だそうです。

読む順番間違えました。何も調べずに読んじゃってました。「うたかたの記」は、次回にします。

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森鴎外の初期の作品ですので、「舞姫」に続いて浪漫主義の作品です。

どうもこの、浪漫主義の定義をつかみかねてまして。続けて森鴎外読めば、少しは見えてくるかなって。

確かに前回の「舞姫」で、主人公は、『親や国の敷いたレールなんて、まっぴらだ!好きなことするぜ!!!』という、思春期みたいな自我の目覚め方してましたけど、これなの?ロマン主義の自我の目覚めってこれのことでいいの?という疑問がわいてしまったのです。

まず、「自我の目覚め」ってなんだろう、と、ちょこっと検索してみたところ、やっぱり思春期ってワード出てくるんですよね。自分の趣味嗜好を明確に意識する時期、思春期、というか、まさに青春時代ですよね。

私以外私じゃないの、当たり前だけどね、ってやつですね。あの歌はロマン主義だったのか。

違うか。

そんなことを考えながら、読んでみた「文づかい」です。

 

簡単にあらすじを申し上げますと、主人公はドイツ帰りの若き日本軍将校。ドイツでのちょっと不思議な出来事を、仲間に聞かせます。

ある日の演習の後、宿となる城へ友人と向かった主人公。その城の主の娘は、友人の許嫁でした。その許嫁から、秘密で手紙を叔母へ届けてほしいと頼まれます。

時間はかかるものの、手紙を届ける主人公。

その後、王宮を訪れる機会が主人公に訪れます。王宮では、なぜか友人の許嫁が、宮女の一人としてそこで働いていました。

彼女に何があったのか、彼女は主人公に真実を語ります・・・。

みたいな話。言文一致の作品じゃないので、細かいところ許してください・・・。

 

結局ですね、「許嫁とか!!親に決められた結婚なんてしたくない!!私は家を出たい!!!」と、叔母へ何とかなりませんか、と助けを求めたわけですね。

そして主人公に手紙を届けてもらうわけです。

パシリです。今回主人公影薄いです。

そして叔母の力添えで、王宮で働くこととなり、望まない結婚から免れるわけです。

 

見事に自我の芽生えですね!!!!!

親の言うなりなんてまっぴらよ!!!私は自由に生きるの!!!って感じですね。

やはり思春期の自我の芽生えと、同じ意味で正解っぽい。もう一作読んだらさらにはっきりしそう。

 

今だったらすごく陳腐なテーマですよね。青春時代に、親の言うことに背いて、自分のしたいことをしてみる、なんて話、どこにでもありますもんね。

でもこの時代にはすごく意味があったわけですね。

こういう作品を読んで日本人は自我について学んでいった、自我を獲得していった、ということなんですかね。

ロマン主義の小説からだけってわけではもちろんないんでしょうが。その一翼は担ったって認識でいいのかな。

だとしたら、確かにとても意味がありますね。

 

こうなってくるとますます、「私以外私じゃないの」は現代のロマン主義説が現実味を帯びてきますね。自我を説いてますもんね。

youtu.be

 

舞姫」から約130年。

再び自我を失いつつある我々日本人に、自我を説いてくれていたのです、ゲスの極み乙女は。

何言ってんだ。

 

文章は文語体でとてもきれいでした。

友人の許嫁がピアノを情熱的に弾くシーンとてもきれいで好きでした。

単純に文章が美しいっていうのは、読み甲斐があっていいですね。

文語体慣れてきましたし。

でももうすぐ完全に言文一致の時代です。

森鴎外の作品も、文語体なのはドイツ三部作くらいなんだそうです。

 

ちょっと寂しい気もしますね。

大事に読んでいきたいです。